(矢野東)豪雨災害から数日間の暮らし

7月6日雨量228㎜(7月8日までの雨量475㎜)

この日から暮らしの記録が止まってしまいました。それでも、人生は続きます。暮らしを一日でもやめるわけにはいかないのですね。暮らしはひとつひとつ小さくつむぐことしか受け付けてくれません。ひとの力も小さいです。だからこそ、時のつむがれたものを大切に残さないといけません。よいことも、そしてわるいことも同じように。

目をそむけず時間を早送りしようとせず、ひとつひとつ小さく時をつむぐ。

ひとには知恵があります。小さくても前にすすみます。必ず。

今日、ひとつ進めたら、「よし!」です。

そして、あしたもがんばりましょ。

今日のためにつむがれた昨日があるように、あしたのために今をつむいでいきましょ。

再開するにあたり、やはりこの暮らしのことを残していかないといけないと思いました。

ここにつむぐ暮らしはあくまで矢野東6丁目に住む自分の暮らしです。

あの日から1週間の暮らしの記録です。その間に周りから聞いた情報で大切なことは沢山ありました。しかし、その人からの情報はここではつむげません。自分の暮らしの体験ではないので、自分のことばでつむげないからです。報道されている矢野東7丁目から近いのですが、驚くほど自分自身への被害はありませんでした。ですが、だからこそ悩んだこともありました。

ほとんど動けなかった暮らしの中で感じてそのとき残していた、暮らしの記録です。

(7月6日)

この日の当初の予定は20時よりクライアント様とリノベーション計画のご契約を交わさせて頂く予定でした。しかし、夕方早い時間帯からの多くの注意報、避難勧告を受け17時ごろの段階で予定を延期させて頂きました。自宅にいると注意報や避難勧告も出ているので雨の勢いは「強いな」と感じる程度とこの時は感じていたのが本音です。この自宅では恐怖を覚えるほどの雨とは感じていなかったと思います。その時の暮らしの記録に「家族3人でTVを見ていた」と記していることからも伺えます。この時TVで何を見ていたかというと「クレヨンしんちゃん」新しいしんちゃんの声を聞き、家族で話していた記録がありました。その後、ミュージックステーション2時間スペシャルを見ていたようです。

この時、雨は激しく、ご近所は避難されていた為、家族は不安だったと思います。自分たちは垂直避難することを決めていました。4年前の豪雨災害の後、頻繁に避難勧告が出るようになってから自分たち家族はこの矢野東の地形、街の様子から「豪雨の時は徒歩では避難しにくいから、まずは垂直避難をする」と決めていました。(今回これがよかったのか、わるかったのかそれは色々考え方があると思います。)

ミュージックステーション2時間スペシャルの後、何を観ていたのか記憶にないのですが、恐らくW杯ベスト8前のハイライト番組だったと思います。矢野東の悲惨な状況は20時前後には起こっていたと後から知ったのですが、当日の22時ごろでも家の中ではこのような暮らしをしていたことになります。のんきなものです。

それでも、家族を護る立場としてずっと周りを気にかけ外の様子を確認してはいました。20時ごろ玄関外の様子を伺った際、今まで感じたことのない「匂い」に気づきました。土と草の匂いが漂っていました。この頃、雷のような音が2回ほど鳴っていました。雷はそれまで耳にしていなかったので、この音は7丁目と白鳥神社上の2箇所の土砂崩れの音だったのかもしれないと思っています。

家族はご近所が避難したことを受け、自分たちも避難の準備をとリュックに詰めて懐中電灯を用意していました。娘も心配でこの日の夜はなかなか眠れず24時を超えるまで起きていました。娘の初めての24時越えだったと記憶しています。自分は寝ずに様子を警戒しておいた方が良いと思い本を2時過ぎまで読んでいました。この時の本は「もうひとつのワンダー」だったと思います。

この日のトップニュースはこの豪雨まで「オウム真理教の7人死刑執行」だったと思います。

自分は大雨のことはそれほど心配はしていなかったと思います。自宅の中で感じた豪雨はそれぐらいだったというのも本音です。その証拠に、この日の夜考えていたことは、豪雨のことというより、この雨で少し濡れて塗装が変色してしまっていた外の家具のことを、これからどうしようかと色々考えていた記録が残っています。

そして後日、この日の記録に追記していることがありました。

「車は弱いということは知っておいた方が良い。車は簡単に流される。雨を防ぐ程度にしかならない。」

(7月7日)

豪雨から一夜。嫁さんと娘のLINEに友達から矢野東の被災状況が次々と送られて来ていました。その送られて来た画像の1枚が、上にある写真です。想像を絶する風景に変わり果てていました。

矢野東7丁目が全国ニュースに流れるくらいの被害でした。矢野峠が上下とも潰れたと分かりました。これでこの地域が孤立したと思いました。毎週日曜日に1週間分の食料を買う我が家。この日は土曜日。冷蔵庫の食料が一番少なくなっている曜日でした。

午後、少しの時間雨が上がりました。その時間に矢野東のまちの様子を自分の目で確かめに行きました。この時は「ひとが亡くなるということ」をイメージしていませんでした。

この日の夕方、同じ団地の方が避難中に流されたという情報が入りました。この後亡くなられたということも。不謹慎な話ですが、これで家族3人この災害に対する重さが大きく変わったように覚えています。

道路が寸断され孤立したと思われた矢野東ですが、抜道は生きているという情報が入って来ました。非常食など確保していなかったのでこれから数日後になくなる食品の確保に向かうことを考えるようになりました。

(7月8日)

自宅で家族と過ごす。

雨はシトシトだけど続いていました。ご近所のお父さんはボランティアに向かった様子でした。

自分もボタンティアに行きたい気持ちがありましたが、僕ひとりボランティアに行き離れ離れになることを家族が酷く怯えるようになっていました。団地には避難中に亡くなった方の情報を集めに朝日新聞と毎日新聞の記者と名乗る人が来ていました。

夕方、自宅の上の愛宕山に崩落の恐れがあるという情報が流れ、周りの友人からも一気にLINEでこの情報が拡散されてきて、急遽避難することになりました。災害後初めての車の移動でした。日曜日の19時台ということもあり、無料開放された熊野道はこの時はスムーズに流れていました。熊野のディオには物がまだ少しはありました。そこから嫁さんの焼山の実家へ避難させてもらいました。

(7月9日)

8日夜から愛宕山崩落の情報はデマで、今度は窃盗団の情報が流れるようになりました。そのことから夜は眠れずずっとネットの情報を見ていたように思います。と、いうより、災害の当日から自宅にいても熟睡できることはなくずっと浅い眠りが続いていたように思います。

デマ、窃盗団という情報に振り回される形で自宅に帰ることに。9時30分焼山を出発して1時間かかって熊野のディオへ。この時パン、お米、冷凍食品以外の商品はある程度ありました。

自宅は無事でした。と、いうより、このような情報は公的な情報かどうか確認した方がよりという話し合いもしたように思います。しかし、実際ここに住んでいて、この3日間の間に「区役所」「自治会」からの情報は何もなく。(と、いうよりその後もですが・・・)せめて自治会レベルの情報、連絡の連携が取れていたら早い行動ができるのになと感じていました。ボランティア活動にしてもそうです。自治会レベルで「どの地区への作業応援が必要」と連携とれることができればもっとうまくまわるのではないかと感じたというのが個人的な意見です。

そして、「このような状況だから」とお仕事も止めるわけには行かず、お仕事のことで行動再開したのもこの日でした。

緑井の不動産屋さんへ次の改修住居の鍵を受け取りに行きました。

この時も家族は僕ひとり離れるのが不安そうだったので家族3人で行動しました。その際、緑井のコンビニで娘が口にした言葉を忘れません。

「パンがある〜!」

そう口にして感動していました。そして、大町のスーパーで災害後初めて「食パン」を購入。水以外は驚くほど普通に揃っていたことにも驚きました。

その日、道路はこんな状況と情報が流れ、少しずつ道路状況が把握できるようになりました。

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この日、矢野東の自宅に帰るまでの道のりが大変でした。

海田大橋で1時間渋滞、海田大橋を降りて矢野東の自宅まで3時間。

(7月10日)

午前中家族3人で次の現場となる高屋までの道を確認。15時に帰宅。

その後、嫁さんと二人16時から1時間矢野東の友達アパートの泥かき作業。

ボランティア作業がやっとできて少し気が楽になりました。

ずっと被災地に暮らしながら、家は何事もなく、水も電気も何不自由ない暮らしをおくれていても、近くでは困っている方もおられます。家族の心のケアを優先させてもらいじっとしている暮らしを送りながら、「自分のこと」しかしていないうしろめたさがずっとありました。

一本道の違う近所へ初めて様子をうかがいに行きました。その時軽率にもサンダルで行ってしまったことに後悔しました。予想以上の被災状況でした。

久しぶりに近所の友人に信号待ちですれ違いました。矢野の為に駆け回っていたその友人は連日の作業で疲労困憊のはずなのに、いつもの輝くような笑顔で手を大きく振っていました。その友人は生まれも育ちもこの矢野。「地元の人にしてみたら、矢野のいまの状況を目にしてかなりショックを受けている」ということがあとで分かりました。だから、その分必死でできることをしているのだと思います。こういう笑顔が一番尊敬できると思いました。

この日、矢野に抜ける様々な抜け道を教えてもらいました。

(7月11日)

ボランティア泥出し作業半日。

その時、ボランティアで来てくれていたポールというフランス人の方と話をしました。

月曜日から会社に行く道がなく休みになっているので、昨日は海田、今日は矢野東にボランティアに来ているということ。ひとりでもしっかり行動されていました。

「お疲れ様です。」

「人手入りますか?」

「手伝いましょうか?」という声かけを積極的にすれば溶け込めました。

気を配る。被災した人に寄り添う。笑顔を持って行くということを学びました。

夕方、また地域の情報がLINEで回って来ました。

「砂防ダム決壊の恐れ、川の水量の上昇、鉄砲水の危険などで高台避難命令」

今回は情報の出所、信頼性を一応周りに確かめました。

今回は道路で警察なども声かけしている様子でした。その後、町内放送でも聞きました。

これにより、お仕事の契約業務をまた延期させて頂きました。しかし、これはまた間違った情報のようでした。警察・消防の方も県外の方が多く情報が錯綜してしまっている様子でした。このようなことがあっても誰も悪くはないと思えました。例え間違った情報でも、いまは避難する事、安全を確保する事が大切だと思えました。

自宅もあります。電気も通っています。水も通っています。ありがたい事に住居面では何不自由ない暮らしが保てていました。それでも、どことなく緊張感があり、気が抜けない状況が続いていました。だから、自分より辛い方も多いからと無理をするのは良くないと教わりました。それでも被災者なのだから、心のケアは大切。自分はまだマシだからと我慢はしない方がよい。十分な辛さをみんな味わっていました。

どうか、自分を大切に。

大きな被害のない自分でも熟睡できませんでした。TV報道はNHKでも地元ラジオでも情報がこの頃から少なくなりました。日常番組が多すぎる。このような状況だからずっと情報を流してくれるところが欲しい。少しそう思いました。

(7月12日)

安芸区の公的機関の動きが悪いという声が上がっていました。矢野東でも乾燥して土埃が出始めました。このころマスク・長靴は必須でした。目の中に入れない工夫も必要でした。

手洗い・うがい、飲み水、食料に注意。屋外での食事も注意。

二次崩落という情報がありました。

土砂災害は雨が降っているときに浮いた土砂が崩れ、雨が降り終わって水が引くときに一緒に土砂を引っ張るので二次崩落が起こる危険性があるということでした。

(7月13日)

一日でも暮らすことをやめるわけにはいきません。せめて周りには微笑みを。

危険な住めない地域ではなく、せめて人の力で愛の溢れる魅力的な地域に。

こんな状況だから気づかせて貰いました。この地域に暮らせることの幸せを。

ゆたかな地域というものを。今日も一日がんばりましょ。

「RCCラジオより」

行かないこともボランティア。知り合いでない、ツテがない場合はボランティアにいかないほうが帰って良い場合がある。見守る。義援金を送る。それが一番の支援になる。ボランティアもプレッシャーになる。若い子の力が必要という言葉もプレッシャーになる。熱中症で倒れる要因をつくってしまう。無理せず、押し売りにならないように。報道を見るそれで動くのも大切。だけど、それで課題な反響があり困ることが増えるという面も考える。

 

見守り、迷惑にならず、助けられることを。

身近なご近所から。

手を差し伸べる時も謙虚さを忘れてはいけないと思いました。

娘という子供のコミュニティがあったから地域に入れました。

嫁さんがいたから地域のコミュニティに入れました。

子供がいない場合はどうなんだろうと考えました。

自治会という存在が大きいのだと思います。

声かけ、挨拶。

(7月14日)

夕方娘と二人で長靴、マスクで散歩するも景色は普通ではなかったが、ほかの住民の人は普通の格好、生活に戻りつつあるように見えました。

 

(7月15日)

ボランティア情報や誰かの行動で、それが苦手でできない人にはプレッシャーになると感じました。

誰々はすごいね。そういう言葉もプレッシャーになります。

自分が、できることをやる。やれることを考える。

そう考えても、なかなか行動できなければ焦る。

自己嫌悪に陥る。

焦らず、自分ができることを。

そして、発信する言葉について。発信する側とは関係なく、受け手には様々な事情があるから。

(7月16日)

この日の情報では広島県内、14市7町 4358棟 全壊152棟。

ボランティアに参加してみて大切な心構え。

熱中症対策には作業の指揮をとる人が必要。

ボランティアは頑張ろうとする。それを見て住んでいる人も頑張ろうとする。自分のペースで水分補給、休憩もしずらい。体力の個人差もあるのに。

せめて

「20分作業、10分休憩」

(もっとできるのに・・・・でも、この時期は長期的なことを考えてこれぐらいの方が良い)

(アイデア)テントを建てて影を作って作業していた。

ボランティア格差

依頼して30分できてくれてところもあれば、依頼して4日してもきてくれないところがある。

ボランティアの運営、避難所の運営にも、経営と同じような能力が必要になると感じました。日頃からの「避難訓練」と同じように「運営訓練」のようなものが。

 

結局この期間、自分自身の暮らしを護ること、家族を護ることしかできませんでした。

それがこの記録です。

だからこそ、これから自分ができることがあれば全力で誰かの力になりたいと思いました。